チキータの遺産序幕 復讐が生む復讐

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 女性は自分の愛した夫が、死体に変わっているのを見た。
 辺りに散らばった研究の資料が、彼の死体から流れ出る血液で、研究室ごと真っ赤に染まっていく。夫の研究成果は、血の海へと沈んだ。
 彼女の悲しみは深かった。悲鳴一つあげることができない。しかしそれ以上に深く底の知れなかったのは、彼女の殺意だった。
 夫を殺した少女が未だに、部屋の中に佇んでいるから。
「あはは……あは」
 死体を眺め、少女は笑い続ける。遊びを求める童女のような笑い声に女性は不安と憎しみを覚える。
 今しがた殺人をしたばかりの少女の緑と蒼のオッドアイに、理性というものは存在していない。ただ、闇があるのみ。
 それはまるで、死という概念を直接運ぶ死神のようだった。
 それはまるで、まだ我慢というものを知らない無邪気な子どものようだった。
 それはまさしく生きたカオス。殺戮そのものだ。
「どうしたの?」
 狂った少女の二色の眼球がギロリと女性の方を向いて、そんなことを言った。
(どうした……だって?)
 女性はこの少女は頭がおかしいのだと思った。しかし、返す言葉が浮かんだとしても、声に出すことは叶わなかった。
 杖を虚空から取り出して構える。
「うがあああ!!
 代わりに口から出たのは、音としては意味のない雄叫び。しかしそこに怒りと憎しみが宿っていることは明らかだった。
 女性の周囲に淡い光の霧のようなものが発生し、魔法の力……マナの流れが顕現する。石造りの自宅を破壊しながら、土魔法による地割れを引き起こす。
 家が割れ、空が見えた。
 女性は魔族と人間のハーフだが、魔法の腕には自信がある。こんな幼い少女くらい、どうということはないと思った。
 少女が風に乗るようにふわりと浮かび上がり地割れを回避されるも、女性はすぐに次の手を打つ。満月が丸見えになった空めがけて、鋭い岩の柱を数十本発現。その柱は確実にその少女を傷つけていく。どんどん血まみれにしていく。
 空高く飛んでいた少女はうつ伏せに落下した。床に叩きつけられてから動かない。
 してやった、そう思った。
「あは……」
 だが直後に狂った少女は顔だけ上げて目を合わせたあと口を裂くように笑い、それを合図に風が鳴く。風魔法の力だけで少女の体が持ち上がる。
 瞬間、気付いたときには女性の目の前に、血まみれの少女のオッドアイが並んでいた。
 理性もなくて感情もない。ただそこにあるだけの目玉が次に捉えたのは、杖を握りしめる女性の右腕だった。
 風が鋭く空を切る音。音が通りすぎた右を見て女性の視界に入ったのは、肩から下がなくなった自分の体だった。
 腕が落ちている。誰の? 自分の。
「いたそう」
 少女が興味なさげに言った。
 月光が照らす右腕の切断面は、まだ血色がいい筋肉と太い骨が丸見えになっていた。
 女性はただ目を見開き、そして大口を開く。悲鳴を上げようとしたが、声にならないのだ。痛みを叫びに変えて発散することさえ許されないまま、女性はその場に倒れこんだ。
 意識が朦朧とする。体の感覚がなくなっていって、残るのは暗闇と音のみとなった。
「おいおい、やりすぎだ。家までめちゃくちゃになってるじゃないか。僕はドクター・マリノを殺すのは同意したけど、ここまでやれとは言ってない」
 足音もなく、何者かがやってきた。おそらく天井に空いた穴からだろうな、と女性は思った。飛行魔法の類で侵入したのだろう。
 声からして男らしい。
「違うよ。家をこわしたのは、この女の人だよ」
「ふうん。じゃあその傷を負わせたのは、こいつ?」
「そう。わたしもびっくりした」
「まあいいや」
「そうだね」
 暗闇の中で会話が続いて、それは少しずつ離れていく。
「よし、治った。じゃあ行こうか、チキータ。僕たちの復讐は、始まったばかりなのだから」
「うん」
 チキータ。その名を女性が忘れることはない。
 憎しみの対象の声と名前を心に刻み込んだところで、彼女の意識は飛んだ。

 

 そして五百年後――

 


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