チキータの遺産第二幕 地方都市ロシュエル◆3

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 ロシュエルの町の中はまだ警備が手薄だった。まさか、外の検問をくぐり抜けるとは思われていないのかもしれない。コラソンは一つ用事を済ませて置きたいというので、フラビオたちは彼女とは別行動でまず宿へと向かった。
「僕は外を警戒する。フラビオくんはチキータを頼んだよ。それと……」
「それと?」
「コラソンちゃんに注意しなよ」
「なんでだよ?」
 ハイメはそう言うだけ言って、チキータとフラビオを残して部屋から出て行った。フラビオはハイメが残した言葉の意味が理解できず、二人きりになった部屋でしばらく棒立ちしていた。
(コラソンに注意しろ……どういう意味だ?)
 フラビオがその言葉の真意を探っていると、横になっていたチキータがつぶやいて、起き上がった。
「私、記憶を思い出すのが怖いです」
「起きてたのか」
「私はきっと大罪人です。でなければ……こんなことには……」
 その声は初めは淡々としていたものの、徐々に後悔するかのような含みを持つものへと変わっていく。チキータの唐突な自責にフラビオは戸惑いつつも、覚悟のようなものを心の中に用意していた。それでいても、自分の口から出るのは安い励ましばかりだったが。
「そんなことないさ。きっと誰かが、勘違いしてるんだ。俺はその勘違いを解くためにカシアさんを頼る。そのためにお前をここに連れてきた」
「フラビオさんは……何も知らないから、そんなことが言えるのです」
 何も知らないから。
 その言葉は強く引っかかった。少なくとも、記憶がないチキータよりも、コラソンやハイメを含めて自分たちのほうが、チキータが何者なのかはわかっている。そのはずだ。フラビオは逃げるように強くそう思い込む。
「実は……その……」
 いつかのやりとりを再びやり直すかのように、チキータが言葉を発した。しかし、今度はその言葉は繰り返されない。ごく当たり前に、言葉が続く。
「私が見ている毎日の悪夢、それは過去の自分の記憶の断片かもしれないと思いました。そして、その内容は……ひどく、むごいものです」
 フラビオは黙っていることしかできない。なにか言おうと考えて、いくつも浮かんでくる言葉はあっても、どれを選択すべきかわからなかった。
「それは殺戮としか形容できない。人が人として扱われていない。ただただ、殺されていく……いや、私が、殺している……私が……」
「ば、馬鹿、何を言ってるんだお前は……」
「私は……私は自分が何者なのかがわからない」
 口では否定しつつも、フラビオはかなり動揺していた。先ほどの小さな覚悟なんてものは毛ほども役に立たない。
 心臓が早鐘を打ち、まるで頭の中に、心臓がもう一つ現れたかのような錯覚。耳元に押し寄せる激しい血液の濁流が、彼の思考の邪魔をする。浮かぶ言葉の断片は、すべて押し流されていく。
 動揺しているのはチキータも同じだ。彼女は小さな拳を強く握りしめて、歯を食いしばっていた。
「まだ私の半分どころか、十分の一も生きていない、人間のあなたに何がわかるというのですか。フラビオさん、あなたは何もわかっていません」
 フラビオの知っているチキータは、記憶がない自分自身が何者なのかわからない不安に、いつも押し潰されそうになりながら生きていた。自分が誰なのかわからない、そんな状況に目を伏せる彼女をいつも見てきて、それを眺めているだけでも胸が張り裂けそうだった彼は、いつもつらかった。
 今、そんなチキータは、自分自身が何者なのか、その答えを求めている。
「分かる。少なくとも俺は、お前が何者なのか知っている! お前は、チキータは、俺の妹みたいな、娘みたいな、可愛いやつで……俺の家族だよ」
 フラビオが楽観的に思い描くチキータを次々に言葉にして、その答えにたどり着こうとする。
 しかしチキータは歯を食いしばる力を強くして、握りしめる拳に入れる力を強くしていった。そんな明るい思考の先に、真の答えは存在しないからだ。
 チキータが首を横に激しく振る。
 違う。私はそんなことを知りたいわけじゃない。そんな顔をして。
「違う! 私のことを家族みたいに思ってくれているのはとっくに知っています。でもそうじゃないんです! 私は誰なんですか!? はっきりしてくださいよ、フラビオさん!!
 フラビオは、自分が知っているその真実を口にできない。口にするのが怖かった。フラビオもチキータも何も言わないまま、時間が過ぎていく。沈黙がその場を埋め尽くしていった。
 このまま時は動かないんじゃないかとまで思うほどに重い空気に耐えていると、突然チキータは今まで苦痛に歪めていた顔を豹変させて無表情になる。次いで口角を小さく吊り上げた。そしてしばらく経つと壊れた人形のように、静かに笑い出す。
「あは、あはは、はははは……ははははは、はあ……」
 その様子は、一言で表わすなら、狂気。
 急に、ひどく居心地が悪くなった。彼女から薄気味悪い黒い霧のような物が立ち込めている。
(マナの流れ……)
 コラソンによく聞かされていた。魔法を扱う種族はもちろん、人間でさえも魔力を身体の周りに漂わせている。普通、人間には見えない。
 私にはこれが目視できるのだとコラソンは得意気に胸を張っていた。
 普段マナの流れが見えないフラビオにでも見えるとなると、チキータの周囲の霧の濃さは言わずとも知れている。大丈夫か、なんて無責任なことは言えなかった。どう見ても大丈夫じゃない。
 ここにいるのはいつものチキータじゃない。フラビオの知っているチキータではなかった。
「フラビオさん。正直に答えて下さい」
 光の失せた瞳を向けてチキータが問う。彼女がその言葉を口にした瞬間、暗黒の中で蒼色の方の瞳が怪しく輝いた気がした。ハイメからもらったであろう、蒼い瞳。
「なんだ」
「知っていましたね、あなたは。私が何者であるのかを」
「俺は……知らなかった」
「嘘です」
 即答される。チキータのライトブルーの片眼はさらに輝きを増したようにも見えた。その輝きには温かみなんて微塵も見いだせない。とても冷たい、鋭い光。
「ハイメには心を読む能力があります。そして私はその力を一部借りることで、あなたの言葉が嘘かどうかくらいならわかります」
「……なるほどな」
 もう彼女は自分が何者なのか、気がついてしまっているのだ。
 黒い霧がどんどん濃く、大きく育っていく。別に辺りの空気が薄くなったわけでもないのに息ができなくなる。
 もはやチキータ・テネブラエは記憶を取り戻し、その正体を露見させた。自分やコラソンは、チキータに殺されたりしてしまうのだろうか。世界はまたテネブラエの起こす殺戮によって支配されてしまうのか。フラビオはそんなことを考えた。
 二回目の暗黒時代。人が死に、全てが破壊に飲み込まれる。
 見たこともないはずの過去の戦火が脳裏に浮かぶ。
 この少女は自分の知っているチキータではない。テネブラエ一味、破壊の象徴が自分の前にいる。そう思うだけでフラビオは気が狂ってしまいそうだ。
 この少女はさっきまでとは全然違う。見た目は何も変わっていないのに、そんな風に思わせるような嫌なオーラがフラビオを刺々しく撫でる。
「私が怖いですか?」
 チキータが黒雲をまといながら一歩、また一歩と近づいてくる。彼女のその声はなぜか震えていた。彼女の中には小さな光の瞬きが同居しているものの、未だその表情には影を落としている。
 怖い。怖い。怖くないわけがない。空気が重くのしかかる。跳ねまわるかのように激しく脈打つ心臓は、今にも胸に穴を開けてどこかへ逃げ出してしまいそうだ。
 しかしここで怖いと言ってしまっては、彼女を傷つける。そう判断した頭が、とっさに嘘を口から搾り出させる。
「まさか……そんなことはない」
「嘘ですッ!」
 叫びながらチキータがさらに足を踏み出す。
「嘘嘘嘘! 嘘ですッ、嘘ッ!」
 嘘なんかじゃない、と反射的に口から漏れそうになった言葉を飲み込む。否定するだけ無駄なのは自分が一番わかっていた。
 何も嘘かどうかを判断するのに必要なのはハイメの能力だけじゃない。
 フラビオは見え見えの自分の態度を省みた。自身の声も同じように震え、逃げるように後ずさりまでしているのだ。こんな状態の自分が嘘じゃないなんて言っても火に油を注ぐだけだ。
「いいんですよ、それで。私は恐怖されるべき存在ですから」
 違う。違うと思いたい。例えその気持ちが嘘であっても、違うと。そう思わなければ、自分達が一緒に過ごしてきた一年間はこんなにも簡単に崩れ去るものだったのだと、肯定してしまうことになる。
 以前のチキータが浮かべていた笑顔を思い出す。
 恐怖されるべき存在。そんな表現があの笑顔に似合うわけがない。
 何が全然違うんだ。この少女は前と変わらない、チキータじゃないか。
 今にも泣き出しそうにチキータは表情を歪ませている。そんな少女に向ける感情は恐怖なんかじゃないはずだ。
 なのに、フラビオの心の中にはプラスの感情が沸き起こらない。そんな自分が嫌で嫌で、否定してしまいたかった。
 目の前で、チキータが顔をぐしゃぐしゃにしているのに。どうして自分は後ずさって、壁に張り付いているのだ。わからなかった。
 洪水のように言葉が頭の中に浮かぶものの、どれを選んで発声すべきかわからない。そしてやはり、考え込んでいるうちに言葉たちは濁流に流されていく。頭のなかが真っ白になる。
 嫌な汗が体中から吹き出す。チキータを覆う黒が辺りを侵食していく。しばらく言葉が交わされないまま時が過ぎてゆく。
 姉妹のように楽しげに会話するコラソンとチキータ。華奢な身体のわりに大食いなチキータにびっくりしているフラビオ。彼の中を、共に過ごした記憶が駆け抜けていった。これらは幻影なんかじゃなかったはずだ。
 フラビオは意を決して口を開いた。
「そうだな。怖いよ、とても」
 これが今のフラビオが最適だと考えて選んだ言葉だった。
 チキータは表情を再び苦痛に歪ませていく。やがて涙を流し始めた。彼女は心の痛みに耐えているのだ。
 ああ、やっぱりそうですよね。そんな顔をして。
 声にならない嗚咽を漏らしながら崩れ落ちるチキータを見つめ、フラビオは続ける。
「今のチキータはすげえ怖い。迫力が今までと全然違う。今にもお前の垂れ流す魔力にやられてぶっ倒れそうだよ。怖くないわけがない。でもそれがなんだって? 俺たちが一緒に過ごした時間がなくなったわけじゃないんだぜ」
 フラビオは未だに震える声で、それでも努めて気さくに語る。これが彼にできる精一杯だった。
「怖くないのですか」
「怖いって言ってるだろ。耳がどうかしてるぞ」
「嘘……じゃないですよね。はは……変な人」
 すごく変だと思う。自分でも何を言っているのかわからない。
 どうせ嘘をついてもバレてしまう。だったら嘘をつく相手を変えてしまおう。チキータに対してではなくて、自分の怖いという気持ちに嘘をつく。自分を騙せば、彼女を怖がらないのは案外簡単だった。
 己の気持ちを否定する。そんなのあまりいい決断ではなかったかもしれない。だがフラビオは、涙声で言うチキータを見るに耐えなかったのだ。
「わわ……ッ!」
 気がつけばフラビオは彼女に駆け寄り、ものすごく力を込めて自分の胸ほどの背丈しかない少女を抱きしめていた。その小さな体躯はとても脆く感じる。このまま抱きしめていたら今にも壊してしまうかもしれないなんて思った。
「私、怖いです」
 黒雲を纏う儚げな少女、殺戮の化身が言った。
「すまない」
「ち、違います。フラビオさんじゃなくて……」
「俺じゃなくて?」
 何かを言おうとして黙ってしまうチキータに、続きを促す言葉を投げてやった。
「……記憶が一部戻ってきただけで、私の中にもう一人の私が現れるんです。その私はとても冷たい心を持っている。全ての破壊を求めている。フラビオさんに拾われる前は何も思い出せないことが恐怖でした……だけど今は違います。記憶を取り戻すのが怖い。何もかも思い出したとき、私が私でなくなってしまう気がして……」
 再びチキータが声にならない嗚咽を漏らし始め、その独白は途切れた。
 大量の涙で胸が濡れるのが分かる。もう一度続きを促して、最後まで聞いて、楽にしてあげるべきだと思った。
 しかしあいにく、フラビオは泣きじゃくる女の扱いには慣れない青臭い男で、促すのに良い言葉が見つからないのだ。ただの世話好きにはここが限界というところだろう。
(俺はやっぱり、まだまだ子どもなんだ……)
 結局フラビオは、わんわん泣き叫ぶチキータをずっと抱いてやることしかできなかった。
 きっと、挨拶を交わさなかったあのとき、すでにチキータは気がついていたのだろう。自分が何者で、どんなことをしてきたのかを。夢の中にはハイメがいて、だからきっと、朝早くから起きて、彼に相談に乗ってもらっていたのかもしれない。
 フラビオは、自分に話すのをためらったチキータを思い出すと、胸が締め付けられる思いがした。唇を噛んで、フラビオも一緒になって泣いてしまった。二つの自分に板挟みにされた苦しみから、チキータを救い出してやることができなかったことが悔しくて、不甲斐なかった。
 しばらく抱き合ってチキータの呼吸は落ち着いた頃、霧の色も薄くなってくる。
 そこに、一人の女の声がした。
「な、なな、お前さんたち、そういう関係だったのかよ……」
 首だけで振り返ると、そこにはイラーナが口を引きつらせて、ドン引きした様子で立ち尽くしている。しかしチキータは、頬を赤らめているものの動揺することなく、まんざらでもない様子だった。
「ち、違う! ていうかそういう関係ってなんだ! つーかなんでイラーナがここにいるんだ!」
「なんでって、ビークルの鍵渡してくれるんだろ? 部屋は、あの……眼帯をしたフードの男が教えてくれたよ」
「あ、ああ、そうだった、すまん」
 チキータのことですっかり気が動転していたフラビオは、イラーナに鍵を渡すことを完全に忘れていた。


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