チキータの遺産第三幕 揺らぐ心◆7

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 夢を見た。胸くそ悪い夢だった。自分の無意識と過去の記憶が混在するうやむやな世界。近いようで遠い昔の記憶だ。
 まだ男女の性差もほとんどない頃からフラビオとコラソンとは一緒だ。夜、寝る時だって一緒にいた。顔を横に向ければコラソンの銀色のポニーテールが視界に映る。よく勝手に触って怒られた。
 彼はずっとこのときから、彼女に好意を抱いていたのかもしれない。
 あの頃のフラビオにとって、あるいはフラビオたちにとってカシアの孤児院は、みんなにとっての大きな自宅みたいなものだった。そこに住んでいる人たち全員が、家族に思えた。一緒に住んでる奴はみんな兄で姉で、そして弟で妹だったのだ。
 コラソンだって、フラビオにとってはわがままで可愛い妹だった。カシアだって優しくたのもしい母だった。フラビオが頼れば、何にでも手を貸してくれる。
 それはコラソンが孤児院から独立した日のことだった。あのときの寂しそうな背中を、彼は今でも忘れることができない。いや、彼が勝手に寂しそうに見えたなどと解釈して、自分の寂しさを紛らわしている。
 コラソンが離れていく。彼女はそれから、フラビオの手なんて借りなくても自分のことは自分でできる大人になってしまった。
(……ふん。いいことじゃないか。それのどこがいけない)
 ふと、長い黒髪にオッドアイ、チキータの笑顔を記憶の中によぎらせた。出会ったのはつい最近のこと。それでもいつもそこにいて、いつも自分を頼ってくれる。
 誰かが内側から語りかけてくる。
 その存在は、コラソンの後釜というのが相応しい。フラビオのための新たな依存対象。
(違う……そんなんじゃない……)
 しかしその顔にはすぐ影が落ち、笑顔は消えてなくなってしまう。あなたはただ、ずっと誰かの世話を焼いていたいだけなのでしょう。そう問いかけてくる。強く訴えかけてくる。表情すら伺えないはずの、影に染まったその顔で。
 誰かの世話をすることに存在意義を感じている。頼りにならない、誰かを頼ってばかりの人なのに。あるいは、頼りにならない人間だからこそ、自分のプライドを保つために精一杯あがいているのかしら。
 性格や考え、行動までもが子どもっぽい。後先考えずに前に出て、周りなんて眼中にない。自己中心的で傲慢。あるときは自己満足のために守るべき対象を強制的に作り出す。そして自分の力では守りきれないと嘆き、悲劇の主人公を演じる。外見は大の大人でも、心の中はいつだって子どものまま。
 どこともわからない場所から人影が集まってくる。体のどこまでもが暗黒に染まる、人の形をしただけの影。影は真っ黒の顔を横に白く裂いて笑っていた。
 微笑でも苦笑でもない。それは嘲笑だった。笑い声が響く。老若男女の笑い声。何もない空間なのに、何かに跳ね返って何重にもなって戻ってくる。あるいは、何百体もの影たちが同時に、少しだけタイミングをずらして笑い声を上げているのかもしれない。
「大丈夫……ですか?」
「……え」
 フラビオは唐突に現実に引きずり出された、あるいは救い出された。
 そこには春の匂いとはまた違った優しさを持つ匂いがあった。瞳を開けると、ぼやけた視界に映る一人の少女が、黒髪のカーテンを垂らしながらフラビオの顔を覗きこんでいる。チキータだった。その顔に影はない。ただ少し不安そうにしている。
 そしてふと自分の肌を垂れる物があることに気がつく。夢の内容はあまり覚えていない。だが、チキータにこんな顔をさせるくらい酷い夢だったのなら、かなりうなされていたのだろう。
 寝汗がすごいのかもしれない、フラビオはそう思って顔を拭った。
「……マジかよ」
 それは汗ではなかった。汗ならもっとべとべとしているはずなのだ。それ以外で人間が顔を濡らす液体といったら、一つしかない。
「心配しましたよ。中庭で横になって、泣いているなんて」
「…………」
 涙で汚れた顔をずっとチキータに眺められていた。情けなくてしばらく声が出なかった。しかし幸いなことに、鼻水を垂らすほど泣いてはなかったようだ。涙はごく少量で、一筋の光を放つのみ。
「どうしたんです? 何かあったんですか?」
「……どうしたもこうしたも、俺はそよ風に当たって気分をすっきりさせていただけだったんだがな」
「なるほど、わかりました。嘘はついていないようです」
「当たり前だ」
 でもなんだか、チキータではない別の何かに対して嘘をついているような気がしてならない。しかしいくら考えても、その答えをフラビオ自身は見つけ出すことができなかった。
「フラビオさん、無茶はしないでくださいね。私は大丈夫です」
「一人でも大丈夫だってか」
 耳から入り込んで中から自分を包み込むような天使のささやきに、フラビオはそんな言葉を暴力的に、自分の意に反して口からこぼしてしまう。どうしてそんな態度をとってしまうのか、自分にもわからなかった。わかりたくなかった。
「いいえ。私はフラビオさんがいるから安心なんです」
 目頭が熱くなる。次第に、なんでもないように振る舞うのが無理になった彼は歯を食いしばって唇を噛み、そして立ち上がった。立ち上がってしまえば、フラビオのほうが断然頭の位置が高くなる。チキータは覗きこむ格好から一転、やや上目遣いで見上げる格好になった。
「なんでも一人でなんとかしようとしたらダメです」
「俺が弱い奴だからってか」
 まただ。フラビオは先ほどのように暴言を、涙声で吐き捨てていた。しかしそれを、思ってもいないことを口にしてしまったとは言えなかった。これは確かに、フラビオが心に抱えて持ち歩いている言葉だったからだ。
「いいえ。でもたまに空回りしてます。腕はあるけど、無鉄砲で協調性に欠けています。そんな感じです」
 せっかくまっすぐに伸ばした膝を折り、フラビオは両手をだらんと垂らしたまま崩れ落ちる。さらに目頭の熱さが増した。チキータが、フラビオを抱き寄せたのだ。
 あどけないその顔立ち、幼さの目立つその体型。しかしそんな彼女から放たれる母性あふれる態度と優しい言葉に、フラビオはなにもかもが剥ぎ取られてしまった。
「なんなんだよ。率直に……俺のことが邪魔だって言えよ! 自分勝手に、守り切る知恵もないくせに、あっちこっち連れ回して、挙句の果てにカシアさんが用意した地雷を踏む。こんなの……邪魔以外の何者でもねえだろ……」
 とどめておくべき心の声が、どんどん溢れだしてしまう。フラビオは顔を上げることができない。ただただ、視界の少し下にある彼女の胸を見る。チキータの顔を直視できなかった。
 チキータがフラビオに片腕を回したまま、彼の唇にピンと立てられた血色のよい人差し指を押し当てる。フラビオは驚き、そして戸惑い、唇を噛んだ。
 フラビオが静かになったことを確認すると、指はすぐに唇から離れた。チキータは背から滑らせてきた手で、愛おしそうに彼の体を撫でる。
「邪魔? まさか、そんなことありませんよ」
 フラビオの口はまた何か暴言を吐いてやろうとしていた。そうしなければ胸の中に渦巻くもやもやが取り除かれないと感じているからだ。しかし喉に何かが詰まったように、声を出すことが叶わなかった。
 息苦しい今は、呼吸をするだけで精一杯だ。コラソンがチキータにプレゼントしたドレスが、フラビオの涙で汚れていく。
「私の指輪……チキータの遺産と呼ばれているそうですけど……それ、今はフラビオさんが持っているそうですね。ハイメから聞きました」
 フラビオが落ち着いたのを見計らって、チキータは真剣な顔ながら柔らかな声で話題を変えた。彼は無言でうなずく。
「指輪を手にしたのがあなたで本当に良かったです。それは私の心とも引き換えできないとても大切なもの。命ではなく、心です。ハイメがフラビオさんにそれを持たせたままにしているのは、それだけ信用されているからです。そして私も、またいつか指輪を使うことがあるのなら、できれば自分自身でもハイメでもなく、あなたに使ってほしい」
「ハイメは、俺は使い方がわからないから預けているようなことを言ってたが」
「でしょうね。でも、ハイメのことだから、私が使い方を教えてしまうことを見越しているんですよ。できれば私も使いたくない代物なのですが……いつか本当に必要になったとき、私はあなたにだけ使い方を教えます。絶対に失くさないように、よろしくお願いしますね。それは、私の心とも引き換えできない、大切なものなので……私は自分の運命を、あなたに委ねたも同然です」
「運命……」
「はい、運命です」
 そう言いながら、チキータはフラビオの頭を撫でた。フラビオは子ども扱いされるのが嫌いだ。だから髭を剃らない。ことあるごとに、一人、また一人とフラビオから離れていく。そして皆、フラビオのことを子どもっぽいと言い、彼から一定の距離を置く。
 残っていてくれたのはコラソンだけだった。だが、そんなコラソンと同じようにチキータも、フラビオとともに行くことを選んでくれている。
 そしてそんなフラビオは、チキータに頭を撫でられても、不思議と嫌な気持ちにならなかった。身を捧げてしまっても構わないとさえ思った。子どもだ、子どもだ、そんな一括りにした言葉でフラビオを評価せず、分かりやすく長所と欠点を同じように並べた。きちんと自分を見てくれていることが嬉しかった。
 さて、と一旦区切りをつけてから、チキータの声はいつもの調子に少しだけ近づいた。どことなく無邪気であどけなさの残る聞き慣れた声だ。
「今はわからないと思いますけど、私にとってこれは覚悟の表明ですよ。男女関係に例えるのなら告白をしてお付き合いを始めた辺り。使い方を教えたらそれは婚約みたいなものです。使うことになってしまったらそれは結婚でしょう。私は誰かと結婚すること自体願い下げなので、婚約しようともできれば何事もなく破棄したいものですが」
「悪いが、何を言ってるのかさっぱりだ」
「でしょうね。でも、今はそれでいいのです」
 まだ少し気が落ち着かないが、いつまでも自分より小さな少女に抱かれているのは恥ずかしい。そう思ってフラビオは膝を伸ばしてしっかりと自分の足で立った。
「ちなみに、覚悟しておいてほしいのですが」
「なんだ?」
 フラビオは後ろを向いて、背中で答えた。もう、こらえるのが限界なのだ。涙ではなくて、別のもの。
「結婚してしまうとすぐ別れたくなってしまうかもしれません。一度ハイメと結婚しましたが、彼はすぐに指輪を手放しました。おそらく、使用者は思っている以上につらいのでしょう」
「自分が持ちたくないのは、そういうことなのか」
「にしても」
「……おう」
 フラビオが吹き出しそうになる。
「男女関係を例えにしたのは失敗でしたあぁああ!!
「あっはっは。全くだよ。結婚とか婚約とか、言いたいことが全然伝わってこない」
 チキータは恥ずかしい話をやっとのことで終えた初心な少女のように、悲痛の叫びを上げた。チキータの盛大な自爆に、隣でフラビオは腹を抱えて大笑いする。しかしやがてそれが収まると、振り返ってチキータに言った。
「だが、気が楽になった。いいオチだったよ」
「むー……そういうつもりではなかったのですが、まあいいでしょう」
 チキータは頬を膨らませて体ごとそっぽを向き、それに従って黒髪はさらりと舞った。そしてフラビオはその後ろ姿に感謝した。


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