午前0時を回る頃1 四年後

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 水たまりの多い小路を抜けた先。
『お悩み相談受付中! 法律は弱い者の味方です』
 恐らく雨水対策のされている看板に貼り付けられた、某弁護士事務所の宣伝チラシが視界に入り虫唾が走った。
 思わず顔を歪めてしまう。何が弱い者の味方だ。
 
 いや……法律は確かに弱い者の味方かもしれない。だけどそれに則り裁きを下すのは人間でしかない。
 不完全で醜い人間。人間はひどく醜いものだ。私も含めて、みんな腐ってる。
 法廷の証言台に立ったあの日、思い知ってしまった。人間の心なんてみんな汚い。あれは私たち二人のの誕生日の一ヶ月後のことだ。絶対に忘れることなんてできない。

 法廷で証言台に立つとまず「宣誓」という行為を行わされる。
『宣誓。良心に従い、真実を述べ、何事も隠さず、又、何事も附け加えないことを誓います』
 そういった類の文章が書かれた紙を読み上げるというものだ。宣誓を行なった上で嘘をついた場合、三ヶ月以上、十年以下の懲役を課せられるらしい。

 果たしてそれは有効なのか。
 私は宣誓を行った上で嘘の証言をし、何の罪にも問われなかった人物を知っている。とても身近、私がよく知っている人でもあって、私のことをよく知っている人でもある。
 嘘の証言で他人に罪を被せるだなんて、これを醜いと言わずなんと言い表せばいいのか、まったく想像がつかない。

 

 

 十月の暮れ、秋深まり冬の匂いが香る頃。
 それは窓の外から激しい雨が地面を叩く音が響く真夜中だった。強い風が窓を揺らし、寝室の中にまで雨の匂いを漂わせる。
 雨音に不穏さを覚えて目を覚ました私は毛布から逃げ出すように這い出てた。そこに、雨の匂いとはまた別の、初めて嗅いだような、しかし原始的に知っている臭いを新たに感じ取った。

 サビの臭い? 鉄? いや、違う……血の臭いだ。

 闇に目が慣れてきて、ぼんやりとしていた視界がはっきりしてくる。時計を見れば時刻は午前0時をとっくに過ぎている。
 今日は従姉の秀美さんが私たちのために開いてくれた誕生日会のため、秀美さんの家に泊まり、お姉ちゃんと秀美さんが同じ布団で寝ているはずだった。しかし辺りには誰もいない。残されているのは二人の抜け殻だけ。お姉ちゃんと秀美さん、どちらの姿も見えなかった。
 じゃあ、二人が何かしているのだろうか。こんな夜中に? 何を?
 鼻につく血の臭いを拒否しようとしてみたけれど、それは無理だった。反対に血の臭いに導かれるように、足取り重くダイニングキッチンに向かう。
 すると思った通り、血の臭いが強くなってきた。
 そして私は、それを見ることが出来たのだ。

 寝室とダイニングキッチンを繋ぐドアを、もう少しだけ押し開いて覗きこむ。
 私は数秒ばかり思考が止まった。光がなくてよく分からない。でも、その隙間を覗きこんで最初に視界に入ったのは間違いなく、床にだらしなく転がる千里お姉ちゃんだった。
 その肉付きのいい体で着こなすパジャマを彩るのは、どす黒い赤。
 体を震わせながら目玉を動かす。続いて視界に入ってきたのは、すぐ脇に呆然と立つ秀美さんの姿。

 このときはまだ何が起きたのかよく分からなかった。理解を拒否した。そして大きく息を吸い込んでそのまま飲み込んでしまう。とりあえず落ち着こうと深呼吸したつもりだったけど、不完全に終わってしまった。
 理解したくない。私はもう一度全力で拒否した。だけど大きく空気を吸い込んだときに入り混じってくるこの血の臭い。この臭いが私の頭を無理やり理解へと導いた。

 お姉ちゃんが、秀美さんに、殺された……?

 秀美さんは息を荒くして依然その場に立ちすくんでいる。ただ肩を震わせているだけで、一歩も動こうとしない。
 動こうとしないのは私の体も同じだった。ダイニングキッチンに真っ赤なお姉ちゃんが転んでいて、秀美さんが赤に染まる銀のナイフを持って、そこにいる。ひたすらに私はそれを観察しているばかりだった。
 この状況があまり良くないことを頭が受け入れたのは、もう少しあとのこと。

 それは永遠にも思える時間だった。しかし、突然に終わってしまう。私のパジャマの擦れる音が鳴ってしまったからだ。
 まだほぼ新品状態で布が硬く、窓の外側の世界で鳴っている雨風よりもこの音は室内に大きく響いた。まずいと思ったときにはすでに秀美さんの眼球がこちらへ向いていて、見開かれたそれと目が合ってしまう。
 私の存在は簡単にバレてしまった。

 秀美さんは私に目撃されたことに気づくなり、血塗れのナイフを向けて私に向かって突っ込んでくる。
 慌てて私はドアを開け放ち、ダイニングキッチンに飛び出した。このとき一旦寝室へ引き返そうとも考えたけど……人間というものは危機に陥ると通常の倍以上頭が回るものらしい。
 秀美さんの家の寝室は一番奥の部屋になる。ダイニングキッチン以外に繋がるドアは一つもなく、引き返したあとに秀美さんの動きに対応できなければ、追い詰められてしまう可能性があった。
 しかし思ったより秀美さんはトロ臭かった。攻撃は簡単に避けることができた上、自分よりも混乱していたようで、攻撃をかわされたあとも壁に突き刺さったナイフをずっと見つめ続けて息を詰まらせている。
 今なら逃げ出せる。そう思った私はその隙に私は家を飛び出した。

 

 そこは雨と風が支配する夜の世界だった。
 追われている気配はなかった。それでも簡素な住宅街の中、雨と風に晒されながら一心不乱に駆け抜ける。新品同然だったパジャマがぐしょ濡れになろうが、泥に足を突っ込もうが、そんなことに構っている余裕は私の心の中にはなかった。闇に染まった景色が流れて飛んで行く。

 

 しかし、しばらく走り続けて私は唐突に足を止めた。
 秀美さんの家周辺はいまいち把握できていない。けれど一応同じ街に住んでいるので私でも駅やデパートなど――あくまで人の姿は見えないが――人々の営みが目立つ大通りまで走ってきていたのが分かる。街灯の数も簡素な住宅地より多くなっている。
 私はもう、秀美さんが千里お姉ちゃんをナイフで刺していた、という事実をすんなりと受け入れてしまっていた。どうしてそんなことになったのか、私にはわからないけど、今の私にとっては理由なんてどうでもいい。秀美さんが私の敵。それがわかればいい。
 車が何台か通り過ぎていく。車の運転席には、確かに人間が座っていた。それを見た私はここが不思議の国でもなんでもない現実の世界なんだとふと気がついて、動悸が収まっていた。
 殺人現場を目撃したというのに、こんなことで緊張が解けてしまってちょっとした笑いがこぼれそうになる。だれど同時に、今までなかった感情が一気に湧き上がりどうしていいのか分からなくなった。
 ……いったい何分ほど雨に打たれ続けて立ち止まっていたのだろう?
 悲しみ、怒り。そしてこの二つが入り混じって出来た新たな感情。それは憎しみと呼ばれるものなのかもしれない。
 これらを雨が洗い流して綺麗にしてくれるんじゃないか。そう思ってずっとその場にとどまっていた。

 でも実際問題としてそんなことはなかった。冷たい雨は容赦なく私に突き刺さる。
 ドブ溜まりが目の前にあった。これが私にはどす黒い血だまりのように見えた。
 激しい雨によってドブ溜まりはかさを増す。それをぼーっと眺めていると、私の中でも何かがあふれ始めた。
 そうして先ほど生まれた感情がより確実なものとなっていく。その感情に突き動かされ、私は壊れた人形のように来た道を引き返した。

 

 いつの間にか電灯が灯されている家の中では、目も当てられないほど醜い姿になった千里お姉ちゃんが床に転がっている。見たところ、秀美さんはあれから一度も手を加えていないと思う。
 お姉ちゃんの身体はほとんど動いていない。ナイフの刺し傷は変わらず一箇所だった。

 しかし横たわるお姉ちゃんの身体は、数十分前より無残で悲惨な姿に変わり果てているように感じた。私も何度か羨んだ胸は血塗れで見るに耐えないほど痛ましく、艶を自慢にしていた黒く長い髪は乱れきっている。
 半開きになった口とそれを覆う青白い唇。お姉ちゃんはあまりにも醜くなってしまっていて、思わず目を逸らしたい気持ちになった。けれど、どうしてか私の目玉はしばらくそれを視界に収めたままぴくりともしない。

 やっとのことで凝り固まっていた目玉を動かし、視線を動かす。
 秀美さんはというと、そんな醜い姿になった千里お姉ちゃんよりさらに醜く私の目には映った。
 まさか戻ってくるとは思っていなかったんだろう。私より九つも年上のくせに、まるで「自分のほうが弱い存在です」と言わんばかりに怯えていて滑稽だった。

 私はそんな秀美さんにひたひたと歩み寄る。綺麗だった床に泥の足あとがどんどん残っていくが、私にそんなことは関係ない。

 途中でお姉ちゃんの、冷えきった素足にぶつかった。ふと視線を下に向ける。
 その冷たい足がつながっている青白い顔からは、全く生気を感じられない。様々な思いにのしかかられて、心臓が潰れてしまいそうだ。
 悲しい。憎い。秀美さんなんて、死んじゃえばいい。
 目頭が熱かった。しかし先ほど沸き上がった燃えるような感情に焼き焦がされて、涙なんて出てくる前に蒸発してしまって、私には泣くことすら許されない。
 私はしばらくずっと、千里お姉ちゃんの青白い顔を眺めていた。今の私にとって、そんな顔であろうとお姉ちゃんの優しい笑顔を思い出すには十分すぎる。
 でもやっぱり涙は出てこない。

「来ないで! 来ないでよ!」
 秀美さんがナイフを私に向けてしゃがれた声で叫ぶ。この声で私は秀美さんの方へ目線を戻したけれど、それ以降ぴくりとも動かさずに秀美さんの目を無表情で見ていた。
 今の秀美さんはつい数十分前とは違い殺気がない。そんな彼女が吐くように漏らす叫びは恐怖に身を任せただけのもの。

 なぜ私のほうが恐怖の対象にされてしまうのか。心の中で嘲笑してしまう。
 ただ叫ぶだけの、私を殺そうとする気力すら失われた秀美さんなんて怖くない。私は気にもとめずにジリジリとその間を詰めて、ナイフの刃を思い切り握りしめた。

 

 秀美さんがヒッ、と奇妙な声を漏らしてナイフの柄から手を離し、その場に崩れ落ちる。その声に続くようにぽたぽたと私の血がしたたる音が響いた。

 本来持つべきではない方向から強く握りしめたのだから、当然手が血塗れになる。秀美さんはその真っ赤に染まった私の右手を驚愕の目で、しかし無言で見上げていた。
 ナイフを持ち直す。今度は柄を握りしめて正しく持った。血をパジャマで拭い、なにか喋ろうと思った。
 でも今まで通り、私は人形のようにカクカクと歩み寄るだけだった。
 感情に支配された言葉を持たない人形だ。

「…………」
 口が引きつり、頬が吊り上がり、目が細くなる。空気に混じって消えてしまうだけの、音になりきれない変な声も出た。
 薄ら笑いを浮かべたような表情への変化に次いで、唇が少しばかり開いただけで何も言えなかった。その顔はきっと醜かったと思う。
 酷く劣悪で気持ち悪い自分の顔を想像しながら、ナイフを握りしめた腕をまっすぐに構えて秀美さんに突撃する。
 ナイフが刺さった感触があった。秀美さんが喉から絞り出したかのような声を漏らしながら、その床に倒れこむ。私はすかさず追撃した。

 振り上げる。振り下ろす。振り上げる。振り下ろす。その繰り返し。そのたびに秀美さんのパジャマは穴だらけになっていく。その穴からあふれだすのは、鮮やかな赤い雫。
「はぁ、はぁ……ぬあぁ! うがああ!」
 胸の内で大きく渦巻いて混沌を描いていた感情が、ナイフを振り下ろすたび、意味のない音になって口から漏れる。
 死ねばいい。死ねばいい。死ねばいい。
 雨音に混じるパトカーのサイレンが聞こえるまで、は終始無言で彼女の返り血を浴び続けた。
 泣き叫ぶ声が聞こえても、そんな声すら聞こえなくなっても、ひたすらその声の主を刺し続けた。

 泣きたいのはこっちだ。ふざけやがって。
 死ね。死ね。死ね。死ね。
 私はそう思った。
 でも、大好きなお姉ちゃんに憎悪に満ちた自分の言葉は聞かせたくなかったから何も言わなかった。
 泣いてる顔もきっと見たくないよね、お姉ちゃん。

 

 一ヶ月後。私は容疑者として裁判所に入廷した。
「宣誓。良心に従い、真実を述べ、何事も隠さず、又、何事も附け加えないことを誓います。花岡千春」
 殺人の容疑者として証言台に立った私の宣誓により、裁判が始まる。
 私は堂々とその場に立ち、ただ真実を言えばいい。とても単純明快でわかりやすい。十二歳の私にだって簡単に理解ができる。

「それでは被告の尋問を開始します。質問された内容に対して出来る限り短くまとめた回答をお願いします。なお、宣誓の上で虚偽の証言をした場合、厳重な処罰がくだされるので注意してください。では被告の弁護人からどうぞ」
「はい」

 裁判官が小慣れたようにテンプレート文を読み上げ、それに続いて私の弁護士が返事をした。そして証言台へと向き直ると、すぐに私に向けて質問を投げかける。

「あなたは、自分の従姉である倉井秀美を殺意を持って殺害しようとしましたか?」
「はい。殺そうとしました」

 私は宣誓で誓った通り、正直に答えた。
 殺意。殺害。つまりは殺人未遂。その響きはおぞましいものだったけれど、それは紛れもない真実で、私の裁かれるべき行い。隠してはならないし、隠すことはできない。

「なぜ殺害しようとしたのですか?」
「私の姉を殺していたからです」
「あなたはそれを見ていたのですか?」
「見ていました」

 おばが私を睨むのが分かった。
 あの子が殺人なんてするはずがない。そういう目だ。
 しかし、すぐその隣にいた、包帯ぐるぐる巻きの秀美さんは、一切私と目を合わせようとはしなかった。私に恐怖しているからじゃない。後ろめたいことがあるからだ。私はそれを知っている。確かに見た。
 弁護士は淡々と作業をこなすように続ける。

「あなたは自分の姉を殺害し、その場を目撃した従姉も殺害しようとした。これは間違っているということですね?」
「はい。間違っています」

 私は表情一つ変えずに答える。真実を口にすることに、わざわざ動揺する理由なんてない。
 相変わらず睨みを効かせるおばに加え、自分や従姉の親族の鋭い視線を背中側にある傍聴席から感じる。
 静まり返っているからこそ、それは痛いものだった。こればっかりは正直、苦しかった。嫌な汗が体中から噴き出してくる。

 

 結局、私には殺人未遂罪として犯罪者の落胤が押された。これは仕方がない。あの場で逆上し、感情に身を任せた私が悪い。
 ただ、あのとき刺しまくった秀美さんが生き残り、一突きしかされなかった千里お姉ちゃんが死んでしまったのは納得がいかない。秀美さんはかなり前からあの場に立ちすくんでいたのだろうか?

 でも、それ以上に納得がいかないのは、殺人罪まで私の前科として加えられたことだ。
 私の大好きなお姉ちゃんを殺したのは私じゃない! あの女だ! 秀美だ!
 私がそう言っても私はただたしなめられるだけ。秀美さんの嘘の証言が優先され、お姉ちゃんを殺したのは私であるということになった。
 そう、秀美さんはあろうことかつい数分前に行なった宣誓をいともたやすく破り捨てて、証言台で嘘をついた。

 きっと裁判官にはおばや従姉が弱い存在に見えたんだろうな。
 わたしは法律が弱い者の味方だと信じてる。
 だからきっと、弱い者の味方である法律に則って、判決を下したのだろうと思った。

 初等少年院を出たあとも、殺人鬼として私の名は街中に知れ渡っていた。
 あの事件から数年経った。あのとき中学生だった私は高校生になれる歳に達している。
 それだけ時間が経過しているというのに。
 石を投げられ、恐怖の目で見られ、逃げ出され。
 自分の居場所はもうどこにもない。

 私は最後の最後で、泣き方を思い出した。


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